嫌いな仕事に励む「怠惰」な生き方について

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嫌いな仕事に日々励むことほど怠惰なことはありません。

そのような人々は、自分の成長機会を放棄し続けているからです。

「我慢して嫌いなことをするより好きなことをする方が成長できる」ことについては、本来議論の余地すらないはずです。

嫌いなスポーツの練習をしても全く上手くならなかったのに、好きなスポーツは練習すればするほど上手くなった。

嫌いな科目の成績は伸びないのに好きな科目の成績はどんどん伸びた。

誰にでも共感してもらえる事柄のはずです。

 

しかし、驚くべきことに、この国では「我慢して嫌いなことをするからこそ人間として成長できる」というような風潮がまだまだ充満しています。

学校は面倒だけど通うのが当たり前。勉強は嫌だけどやるのが当たり前。仕事も辛いけどこなすのが当たり前。

これが世間の一般認識です。

面倒なこと、嫌な事、辛いこと、これらを真面目にこなすことが勤勉だとされています。

なぜこんなことになってしまっているのでしょうか?

 

嫌いなことをしなければ生きていけない?

この問いに対しては、おそらく「我慢して嫌いなことをしなければ生きていけないんだ!」という反論が返されるでしょう。

本当にそうでしょうか?

いえ、そんなことはありません。

そう反論する人は、「周囲に合わせ、就職活動をしてこそ仕事を得られるのだ」と考えているのでしょう。

しかし、そう考えるのは、自分がスキルを持っていないからです。

スキルがないからこそ、周りに合わせ、新卒一括採用という競争に飛び込むしかないと考えてしまうのです。

好きなことをして自分の才能を磨き、スキルを獲得してこなかったからこそ、「我慢して嫌いなことをしなければならない」のです。

 

いくら野球を練習してもプロ野球選手になれない問題

「それでも、好きなことをしているだけで仕事になるのは一握りのはずだ!」という意見が出るのは当然のことでしょう。

野球大好き少年がいくら野球を練習しても、必ずプロ野球選手になれるとは限りませんよね。

「根性で練習すれば必ずプロになれる!!」なんて非現実的なことを言うつもりはありません。

 

しかし、考えてみてください。

野球大好き少年は、本当に「野球」が好きだったのでしょうか?

いや、プレーするのは間違いなく好きだったのでしょうが、「本当に野球の全てが好きだったのか?」という意味です。

例えば、バッティグは好きだったが、守備はそんなに好きではなかった。ピッチングは好きだったが、走塁は好きではなかった。

もっと言えば、ボール球を見極めるのは大好きだったが、バットを振るのはそこまで好きではなかった、なんてこともあるかもしれません。

つまり、野球大好き少年は、「野球」という競技そのものが好きだったわけではなく、競技中のプレーの一部が好きだった可能性が高いのです。

 

その「大好きだった一部のプレー」を見つけることが、仕事につなげるヒントになります。

例えば、キャッチャーとして投球をリードするのが好きだったのなら、本当は「相手の心情を読むこと」が好きだった可能性があります。(詳しいことは本人しかわかりませんが)

 その「才能」は野球意外でも活かすことができますよね。

カウンセラーなどの誰かと一対一で接する仕事が良いかもしれません。

自分の才能を自覚して仕事を選べば、「一部のプレーが好きだった野球」よりも夢中になれることでしょう。

そして、それには結果とお金がついてくるはずです。

 

「一部のプレーが好きだった野球」に費やした時間が無駄だったということではありません。

一部のプレーは確かに好きだったのですから、その分スキルと才能は磨かれています。

ただ、自分の「才能=本当に好きなこと」を自覚することで、より効率が良いレベルアップが見込めるという話です。

自分が本当に好きなことは何か自覚し、それに没頭する。

それが真に「勤勉」な生き方です。

人生に競争は必要ない

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私は高校2年生の時学校を中退したのですが、当時はかなり決断に悩みました。

「レールの上から外れたら生きていけないのではないか」「同級生に置いていかれてしまうのではないか」このような不安があったからです。

人生の中心に競争があることは当たり前であり、そうでない未知の人生が怖くて怖くて仕方ありませんでした。

我ながらよく中退するという決断を下せたものだと思います。

いざ決断してみると、すぐに不安は杞憂だったことがわかりました。

誰と比べる必要もなく、どこを目指す必要もない人生は、限りなく広大で自由でした。

 

競争に対する一般認識

日本人は競争が大好きです。

学校ではテストの成績で競争し、受験勉強で競争し、就職活動で競争し、就職してからも出世競争に勤しみます。

「競争は自分が成長していくために必要なものである」とポジティブに捉えている人がほとんどでしょう。

 

漫画やアニメでもその傾向がみられます。

主人公が成長していくためには、ライバルの存在が欠かせません。

ライバルと切磋琢磨し、お互いがお互いに勝とうと努力することで、相乗効果的にレベルアップしていくものですよね。

競争は成長のシンボルであり、健全そのものだと多くの人に認知されています。

 

しかし、競争とは本当に健全で良いものなのでしょうか?

競争をすることで成長が促進されること自体は否定しません。

誰かに勝つために努力をして、結果的に成長する。おおいにありえることでしょう。

ですが、そんなメリットをはるかに超える大きなデメリットを競争が生んでいると私は考えます。

 

競争と信頼は共存できない

 大きなデメリットとは、社会及び周囲の人間を敵だと認識してしまうようになることです。

つい一年前、高校を中退するまでは、私も正にこの状態でした。

「信用できるのは自分だけであり、人に頼るなどもってのほか」

「他人は自分の不幸を祈っている」

このような思考がデフォルトです。

重要な決断をする際も、相談なんて絶対にしません。

私が高校を中退する決断を下したときも、友人に意見を求めるようなことは全くしませんでした。

味方であるはずの友人でさえ、「本当は自分の不幸を祈っているのだ」と信じて疑わず、信用できなかったのです。

 

では、 なぜ競争にハマると社会を敵視するようになってしまうのでしょうか。

 競争において、目標はたった一つです。

相手に勝つこと、勝ること、それだけを追求します。

目標を達成するためには、自分が成長して相手の実力を抜くのがわかりやすいですが、

方法はそれだけではありません。

必ずしも自分が成長しなくても、相手の実力が自分より下がればよいのです。

つまり、競争の目標(勝つこと)を達成するためには、相手を蹴落すことがある意味で肯定されてしまうのです。

 

もしかすると、「俺は相手を蹴落とすようなマネは絶対にしない!一部の人間の悪行に注目して競争を否定するな!」という声もあるかもしれません。

確かに真面目に努力を積み重ね、競争を健全に利用している人もいるでしょう。

しかし、自分が「相手を蹴落とすという方法」を利用しなければよいという話ではないのです。

自分がいくら相手の足を引っ張らなくても、相手はそんなことお構いなしに自分の足を引っ張ってきます。

「誰に足を引っ張られるかわからない」という状況が、社会への敵視を生みだします。

周囲の人間が全員敵に視え、誰かを頼るようなことは到底できません。

 

他者を信頼できない人生は川のぼり

「信じられるのは自分だけ、そんなこと当たり前だ!」「社会は厳しいものなんだ!」そう信じて疑わない人もいるでしょう。

しかし、本当にそうでしょうか?社会はそんなに厳しいものでしょうか?

 

私は、そんな風に一人で気張って生きている人を見ると、「川の流れに逆らって泳いでいるようだな」と思います。

流れに任せて川を下ってしまえば楽なのに、わざわざ苦しい生き方を選択しています。

競争から離れれば、他者や社会はもう敵ではありません。

他者や社会をどんどん頼って生きていけるので、人生の難易度はぐっと下がります。

社会は意外と優しいものです。

わざわざ苦しい環境を自ら作り出す必要なんてありません。

 

競争が無い社会を作るためには

競争のおおもとは、「自分の価値を見出すこと」にあります。

誰かに勝ち、自分の価値を見出すことで、「私はここにいてもいいんだ」と実感するという目的があるのです。

そして、その感覚は子ども時代に養われます。

子どもにとっては、親からの評価が何よりも重要です。

「親にとって自分は特別である」と実感するために、誰かに勝つことを志します。

 

一般的な親は子どもがテストで良い順位をとると喜びますね。

また、「うちの子は野球選手になってほしい」「うちの子は医者になってほしい」などと言う親もいます。

一般的な親は、自分の子どもが「特別」であってほしいと願っているのです。

全ての原因はここにあります。

親が「特別」であってほしいと願うことで、子どもは「特別」であろうと努力するのです。

「特別」とは人と違うという意味です。

健気な子どもは、人に勝つことを目指し、競争の渦に飛び込んでいくことになります。

 

つまり、「親が子どもに特別であってほしいと願うこと」が競争社会を作り出している一番の原因です。

社会から競争を無くすためには、親の教育方針を改革する必要があります。

全国の親は、「子どもは自分の所有物ではない」と自覚しなくてはいけません。

子どもを自分の物のように感じているからこそ、野球選手にしようとしたり、医者にしようとしたりするのです。

「自分の子どもは独立した一人の人間なのだ」 と実感していれば、「特別であってほしい」などと願うことはありません。

 

そしてもう一つ、子どもを「存在」のレベルで価値を認めてあげることが重要です。

親にとって子どもとは、そこにいるだけで価値がある存在のはずです。

決して、何かを成し遂げたから価値があるわけではありません。

それを態度で子どもに伝えてあげるのです。

子どもは親からの評価を求めて頑張り、競争するようになるわけですが、もし親に「存在」のレベルで価値を認めて貰えていれば、そんなことをする必要はありません。

 

存在のレベルで価値を認めることは、何も難しいことではありません。

子どもが何かを成し遂げたり失敗したりしたときに褒めたり叱ったりするのをやめればそれで済みます。

その代わり、「嬉しい」「悲しい」「ありがとう」「ごめんなさい」など自分の感情を素直に伝える言葉を多用すると良いでしょう。

主従関係を築くのではなく、対等に接せられることで、人は自分の存在価値を実感することができるのです。

 

 

大きな原因になっているため、親の教育方針について取り上げましたが、これは日常の人間関係についても同じことが言えます。

誰かが誰かを従わせるからこそ、従わされた側は自分の「存在価値」を見出すことができなくなります。

そして、人の上に立つことで自分の価値を見出すことを目指し、競争の渦に飛び込んでいくのです。

これがもし、全員が全員に対し対等に接していたならどうでしょうか?

全員が自分の「存在価値」を見出すことができるので、自分の価値を実感するためにわざわざ競争をする必要はなくなります。

 

周囲の人間がいくら競争をしていようと、自分だけは競争から抜け出し、他人に対して対等に接する。

そして「存在価値」を実感できる人を増やす。

これが社会から競争を無くしていくために個人ができる唯一のことです。

私も地道に周囲の人と対等に接し、日々草の根運動に励もうと思います。

スポーツ初心者には基礎練習より実践練習が必要だ

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あなたは部活動などでスポーツに取り組んだことはありますか?

当初は誰もがワクワクして練習に参加するものですが、与えられる練習メニューは大抵基礎ばかりですよね。

「早く試合形式の練習をしたい!」「実践練習を始めてくれ!」とうずうずする気持ちは多くの人に共感してもらえるでしょう。

 

私も過去にいくつかのスポーツに取り組んできました。

卓球、ハンドボール、バスケットボール、ラグビーアメリカンフットボールと、種目数だけは豊富です。

卓球に関しては指導者の下で練習したわけではないので基礎練習はほどほどでしたが、他の種目は部活動でしたので、例外なく基礎をびっしり仕込まれました。

ハンドボールなら手首を返すパス、バスケならボールハンドリング、ラグビーならフラットなパス、アメフトなら基本姿勢…

パスの基礎が終わっても次はドリブルの基礎、シュートの基礎、と続いていきます。

 

私は今からこのスポーツ指導法に異を唱えるわけですが、ある程度スポーツに取り組んだことがある方からは、難色を示されることを理解しています。

スポーツ中級者以上の方なら誰でも基礎の重要性を嫌というほど思い知らされていますから、当然ですよね。

でも、少しだけ我慢して私の意見を聞いていただけると幸いです。

私も基礎の重要性を嫌というほど理解している人間の一人ですから。

 

初心者は実践練習から入るべし

結論から述べると、初心者は基礎練習ではなく、実践練習から入るべきです。

もちろん、基礎の「き」の字も知らない初心者が実戦形式の練習を始めれば、全く上手くいきません。

例えばサッカーなら、全員がボールがあるところに集まる「にわとりサッカー」になってしまうことでしょう。

しかし、やっていくうちに状況は変わっていきます。

一部の初心者が「全員がボールめがけて走るより、広がってパスを回す方が効率が良いぞ」と気づき始めるのです。

そして、徐々に試合らしくなっていきます。

 

ですが、試合らしくなったところで、所詮は初心者の集団です。

単純なドリブル、パスでミスを連発し、肝心のシュートが入りません。

今の自分達の限界を思い知らされます。

このままでは「試合を楽しむことができない」ことを実感するのです。

言い換えれば、基礎の重要性を実感するのです。

 

実践練習から入る目的はここにあります。

初心者がただ基礎の練習を始めてもつまらないですし、いつ使うのかもわかりません。

結果、練習に身が入りません。

上級者が必死にその基礎練習の重要性や使い時を説明しても、実際に実感していない初心者には全く伝わらないものです。

よくコーチが「練習のための練習をするな!」(※試合の一場面を想定して練習しろという意)と指導することがありますが、その練習の「使い時」を実感していない選手にとって、それは無理な話です。

実践が不十分なまま基礎練習に入ってしまった指導方針に問題があります。

 

選手が基礎の重要性をその身で実感してこそ、練習に身が入るというものです。

基礎練習が重要だからこそ、本気で取り組まなくてはならないこそ、初心者は実践練習から入るべきなのです。

学校が子どもの「成長」を奪う

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あなたは計何年学校へ通いましたか?

成人済みのほとんどの方は、小中高で12年、もしくは大学を入れて16年と答えるでしょう。

これって凄いことですよね。

どんな凝り性の方でも10年以上続けていることがある方はそうそういないはずです。

ところが、学校となるとどんな不良でもどんな変わり者でも、90%以上の方が通い続けるのです。

 

そんな現状があり、「学校をやめる」「学校へ行かない」という行為は、白い目で見られます。

当たり前のように通学している人、通学していた人にとっては正に「信じられない行為」であり、当人は周囲から禁忌を犯したかのように責め立てられるはずです。

 

「でも、本当に学校へ通う必要ありますか?」というのが、この記事のテーマになります。

子どもが成長するための場として存在しているはずの学校ですが、子どもへ与える害の方が大きいと私は思うのです。

「学校へ通うことが当たり前じゃない社会」を目指して孤軍奮闘したいと思います。

 

大きすぎる学校のデメリット

①自立心を損なわせる

やや唐突ですが、教育の最終目標とは何でしょうか?

「社会常識を身に着ける」ことでしょうか?それとも「立派な人格を身に着ける」ことでしょうか?

 

私はシンプルに「自立」だと思います。

経済的な意味でもそうですが、何よりも「自分のために生きる」ことが重要だと考えます。

親のためでも教師のためでもなく自分のために生きる、こう実感してもらうことが教育の大きな役割なのではないでしょうか。

 

現在の学校教育では、その自立心を養うことができません。むしろ自立心を損なわせる教育を施していると言ってよいでしょう。

これが大きすぎる学校のデメリット、一つ目です。

 

 生徒の自立心を損なわせている要因は、「叱ること」と「褒めること」にあります。

宿題を忘れた生徒を「叱り」、テストで良い点をとった生徒を「褒める」。

学校教育に馴染んでいる方にとって、これは普通のことでしょう。

しかし、私は断固としてこの賞罰教育を否定します。

 

賞罰教育がなぜいけないか。その理由は単純で、生徒が「叱られないため」、もしくは「褒められるため」に努力をするようになってしまうからです。

「それの何がいけないんじゃい!?」という声もあると思いますが、

「叱られないため」「褒められるため」に努力をするようになることは、裏を返せば「叱られなければ努力しない」「褒められなければ努力しない」ことを意味します。

 

つまり、その生徒は自分のためではなく、教師のために努力をしているのです。

これが上の自立心を損なわせているという話に繋がります。

賞罰教育を受けた生徒は、大人になってからも「叱られない」「褒められる」ためにしか努力をしない人間になってしまうことでしょう。

 

 ➁社会を敵視するようになる

ほとんどの学校では、生徒一人一人に成績をつけ、順位づけします。

競争を促進し、全体のレベルアップを図っているのですね。

その計画はおおよそ思惑通りに進み、学校全体の成績はある程度向上しているでしょう。

 

しかし、「競争」にはそのメリットをはるかに超える大きなデメリットがあります。

「勝つこと」が何よりも重要だと教えられた生徒が、他者を敵だと感じてしまうようになることです。

これが成績、勉強だけの話ならまだ良いですが、影響は人間関係にも及びます。

まるで野生動物のように、同級生の中で立場を少しでも良くしようとやっきになります。

これは日本のほとんどの学級で見られていますよね。

「あいつよりはましだ」「あいつには負けている」などと同級生を格付けし、見下したり逆に持ち上げたりするようになります。

 

いじめは、その「相手を格付けする環境」の産物です。

他者を格付けし、自分の方が立場が上だと認めさせるために発生します。

「教育現場からいじめをなくそう!」なんてことをたまに聞きますが、そのためには成績や順位付けを無くすほかありません。

そんな環境にいる生徒がいじめを起こすことは当たり前であり、個人を責めるのは間違いです。

 

そして、この体質は社会に出てからも変わることはありません。

実際、日本人のほとんどがこの「相手を格付けする体質」だと言えるでしょう。

ギスギスし、他人に心を開くことができない社会、

サラリーマンが仏頂面で歩く社会は学校が作っているのです。

 

学校へ行かない代わりに何をするか

そもそも、子どもがすべきこととは何なのでしょうか?

私は「成長」だと考えます。

ですから、「学校へ行かない代わりに何をするべきか」は、「子どもが成長するためには何をすれば良いのか」という意味で書いていきます。

 

子どもが成長するためにすべきことを人に聞けば、まず勉強が挙がるでしょう。

私は学校制度を否定していますが、勉強を否定しているわけではありません。

毎日学校へ通わずとも本を読むだけで充分勉強はできますし、国の方針に合った勉強がしたいのであれば、通信制の学校に入学するという手もあります。

通信制の学校はテストこそありますが、生徒間の順位がつくようなことはなく、全日制の学校のように競争が誘発されることはないでしょう。

かくいう私も現在通信制の高校に通っています。

 

勉強することが成長につながる、その考えには私も概ね同意です。

日常に潜む「なぜ?」に敏感になって思考力が向上したり、論理的な思考が身についたり、問題解決能力が発達したりするなどの効果が見込めるでしょう。

ただし、その効果は「やらされる勉強」で得ることはできません。

方程式を解いたり公式を暗記したりすることはできるようになるかもしれませんが、上記のような能力向上は見込めません。

「自分から勉強をする」からこそ勉強が「成長」につながるのです。

 

そして、それは勉強に限った話ではありません。

 ゲームでもスポーツでもビジネスでもやらされれば意味がありませんし、自分からやれば様々な能力向上につながり、自分の成長を促進します。

つまり、「学校へ行かない代わりに何をすれば良いのか」の結論としては、「自分がやりたいことであれば何でも良い」です。

 「それをやると親が喜ぶから」ではなく、自分が夢中になり、楽しめることをすべきです。

 

そんなやりたいことだけをするという姿勢を「怠惰」だと考える人は少なくありません。

しかし、私から言わせれば、自分の欲求に従わないことの方がよっぽど「怠惰」です。

人が成長するのは「夢中になっているとき」です。

好きなゲームの腕前がどんどん上達したり、好きなスポーツの実力がぐんぐん伸びていったりした経験は誰にでもあるでしょう。

「やりたいことをやらない人」はそんな成長の機会をむざむざと放棄し、「やりたくないこと=成長が見込めないこと」に力を注いでいるのです。

自分のためにならないことはもちろんですし、その人が属する組織にとってもマイナスです。

周囲に合わせ、レールの上の人生を歩み、やりたいことをやらない人は、自分の価値の向上を目指さない怠惰な人だと言えます。

 

また、学歴が低いことから将来の不安を感じるという意見もあるでしょう。

しかし、その心配は不要です。

夢中になって磨いたスキル、才能は、必ず仕事に結びつきます。

むしろ、自分の才を磨くことなく、周囲にただ合わせて生きてきた人の将来の方が危ないと言えるでしょう。

 

 

当初は(江戸時代とかそういう話ですが)、学校という施設は子どもが自由に学び合うために存在していたのでしょう。

しかし現代、社会に出るための通過儀礼として存在するような施設に成り下がってしまっています。

「周囲に合わせることを学ぶ」ことを目的とした云わば強制施設であり、そこにはもう「子どもの成長を促す」という本来の目的は存在しません。

私もできるなら本来の姿を取り戻してほしいと思いますが、それはおおよそ無理な話です。

ですから、一度学校制度を崩壊させるしかありません。

「学校へ毎日通うことが当たり前じゃない社会」を作るしかないのです。