人生に競争は必要ない
私は高校2年生の時学校を中退したのですが、当時はかなり決断に悩みました。
「レールの上から外れたら生きていけないのではないか」「同級生に置いていかれてしまうのではないか」このような不安があったからです。
人生の中心に競争があることは当たり前であり、そうでない未知の人生が怖くて怖くて仕方ありませんでした。
我ながらよく中退するという決断を下せたものだと思います。
いざ決断してみると、すぐに不安は杞憂だったことがわかりました。
誰と比べる必要もなく、どこを目指す必要もない人生は、限りなく広大で自由でした。
競争に対する一般認識
日本人は競争が大好きです。
学校ではテストの成績で競争し、受験勉強で競争し、就職活動で競争し、就職してからも出世競争に勤しみます。
「競争は自分が成長していくために必要なものである」とポジティブに捉えている人がほとんどでしょう。
漫画やアニメでもその傾向がみられます。
主人公が成長していくためには、ライバルの存在が欠かせません。
ライバルと切磋琢磨し、お互いがお互いに勝とうと努力することで、相乗効果的にレベルアップしていくものですよね。
競争は成長のシンボルであり、健全そのものだと多くの人に認知されています。
しかし、競争とは本当に健全で良いものなのでしょうか?
競争をすることで成長が促進されること自体は否定しません。
誰かに勝つために努力をして、結果的に成長する。おおいにありえることでしょう。
ですが、そんなメリットをはるかに超える大きなデメリットを競争が生んでいると私は考えます。
競争と信頼は共存できない
大きなデメリットとは、社会及び周囲の人間を敵だと認識してしまうようになることです。
つい一年前、高校を中退するまでは、私も正にこの状態でした。
「信用できるのは自分だけであり、人に頼るなどもってのほか」
「他人は自分の不幸を祈っている」
このような思考がデフォルトです。
重要な決断をする際も、相談なんて絶対にしません。
私が高校を中退する決断を下したときも、友人に意見を求めるようなことは全くしませんでした。
味方であるはずの友人でさえ、「本当は自分の不幸を祈っているのだ」と信じて疑わず、信用できなかったのです。
では、 なぜ競争にハマると社会を敵視するようになってしまうのでしょうか。
競争において、目標はたった一つです。
相手に勝つこと、勝ること、それだけを追求します。
目標を達成するためには、自分が成長して相手の実力を抜くのがわかりやすいですが、
方法はそれだけではありません。
必ずしも自分が成長しなくても、相手の実力が自分より下がればよいのです。
つまり、競争の目標(勝つこと)を達成するためには、相手を蹴落すことがある意味で肯定されてしまうのです。
もしかすると、「俺は相手を蹴落とすようなマネは絶対にしない!一部の人間の悪行に注目して競争を否定するな!」という声もあるかもしれません。
確かに真面目に努力を積み重ね、競争を健全に利用している人もいるでしょう。
しかし、自分が「相手を蹴落とすという方法」を利用しなければよいという話ではないのです。
自分がいくら相手の足を引っ張らなくても、相手はそんなことお構いなしに自分の足を引っ張ってきます。
「誰に足を引っ張られるかわからない」という状況が、社会への敵視を生みだします。
周囲の人間が全員敵に視え、誰かを頼るようなことは到底できません。
他者を信頼できない人生は川のぼり
「信じられるのは自分だけ、そんなこと当たり前だ!」「社会は厳しいものなんだ!」そう信じて疑わない人もいるでしょう。
しかし、本当にそうでしょうか?社会はそんなに厳しいものでしょうか?
私は、そんな風に一人で気張って生きている人を見ると、「川の流れに逆らって泳いでいるようだな」と思います。
流れに任せて川を下ってしまえば楽なのに、わざわざ苦しい生き方を選択しています。
競争から離れれば、他者や社会はもう敵ではありません。
他者や社会をどんどん頼って生きていけるので、人生の難易度はぐっと下がります。
社会は意外と優しいものです。
わざわざ苦しい環境を自ら作り出す必要なんてありません。
競争が無い社会を作るためには
競争のおおもとは、「自分の価値を見出すこと」にあります。
誰かに勝ち、自分の価値を見出すことで、「私はここにいてもいいんだ」と実感するという目的があるのです。
そして、その感覚は子ども時代に養われます。
子どもにとっては、親からの評価が何よりも重要です。
「親にとって自分は特別である」と実感するために、誰かに勝つことを志します。
一般的な親は子どもがテストで良い順位をとると喜びますね。
また、「うちの子は野球選手になってほしい」「うちの子は医者になってほしい」などと言う親もいます。
一般的な親は、自分の子どもが「特別」であってほしいと願っているのです。
全ての原因はここにあります。
親が「特別」であってほしいと願うことで、子どもは「特別」であろうと努力するのです。
「特別」とは人と違うという意味です。
健気な子どもは、人に勝つことを目指し、競争の渦に飛び込んでいくことになります。
つまり、「親が子どもに特別であってほしいと願うこと」が競争社会を作り出している一番の原因です。
社会から競争を無くすためには、親の教育方針を改革する必要があります。
全国の親は、「子どもは自分の所有物ではない」と自覚しなくてはいけません。
子どもを自分の物のように感じているからこそ、野球選手にしようとしたり、医者にしようとしたりするのです。
「自分の子どもは独立した一人の人間なのだ」 と実感していれば、「特別であってほしい」などと願うことはありません。
そしてもう一つ、子どもを「存在」のレベルで価値を認めてあげることが重要です。
親にとって子どもとは、そこにいるだけで価値がある存在のはずです。
決して、何かを成し遂げたから価値があるわけではありません。
それを態度で子どもに伝えてあげるのです。
子どもは親からの評価を求めて頑張り、競争するようになるわけですが、もし親に「存在」のレベルで価値を認めて貰えていれば、そんなことをする必要はありません。
存在のレベルで価値を認めることは、何も難しいことではありません。
子どもが何かを成し遂げたり失敗したりしたときに褒めたり叱ったりするのをやめればそれで済みます。
その代わり、「嬉しい」「悲しい」「ありがとう」「ごめんなさい」など自分の感情を素直に伝える言葉を多用すると良いでしょう。
主従関係を築くのではなく、対等に接せられることで、人は自分の存在価値を実感することができるのです。
大きな原因になっているため、親の教育方針について取り上げましたが、これは日常の人間関係についても同じことが言えます。
誰かが誰かを従わせるからこそ、従わされた側は自分の「存在価値」を見出すことができなくなります。
そして、人の上に立つことで自分の価値を見出すことを目指し、競争の渦に飛び込んでいくのです。
これがもし、全員が全員に対し対等に接していたならどうでしょうか?
全員が自分の「存在価値」を見出すことができるので、自分の価値を実感するためにわざわざ競争をする必要はなくなります。
周囲の人間がいくら競争をしていようと、自分だけは競争から抜け出し、他人に対して対等に接する。
そして「存在価値」を実感できる人を増やす。
これが社会から競争を無くしていくために個人ができる唯一のことです。
私も地道に周囲の人と対等に接し、日々草の根運動に励もうと思います。