学校が子どもの「成長」を奪う

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あなたは計何年学校へ通いましたか?

成人済みのほとんどの方は、小中高で12年、もしくは大学を入れて16年と答えるでしょう。

これって凄いことですよね。

どんな凝り性の方でも10年以上続けていることがある方はそうそういないはずです。

ところが、学校となるとどんな不良でもどんな変わり者でも、90%以上の方が通い続けるのです。

 

そんな現状があり、「学校をやめる」「学校へ行かない」という行為は、白い目で見られます。

当たり前のように通学している人、通学していた人にとっては正に「信じられない行為」であり、当人は周囲から禁忌を犯したかのように責め立てられるはずです。

 

「でも、本当に学校へ通う必要ありますか?」というのが、この記事のテーマになります。

子どもが成長するための場として存在しているはずの学校ですが、子どもへ与える害の方が大きいと私は思うのです。

「学校へ通うことが当たり前じゃない社会」を目指して孤軍奮闘したいと思います。

 

大きすぎる学校のデメリット

①自立心を損なわせる

やや唐突ですが、教育の最終目標とは何でしょうか?

「社会常識を身に着ける」ことでしょうか?それとも「立派な人格を身に着ける」ことでしょうか?

 

私はシンプルに「自立」だと思います。

経済的な意味でもそうですが、何よりも「自分のために生きる」ことが重要だと考えます。

親のためでも教師のためでもなく自分のために生きる、こう実感してもらうことが教育の大きな役割なのではないでしょうか。

 

現在の学校教育では、その自立心を養うことができません。むしろ自立心を損なわせる教育を施していると言ってよいでしょう。

これが大きすぎる学校のデメリット、一つ目です。

 

 生徒の自立心を損なわせている要因は、「叱ること」と「褒めること」にあります。

宿題を忘れた生徒を「叱り」、テストで良い点をとった生徒を「褒める」。

学校教育に馴染んでいる方にとって、これは普通のことでしょう。

しかし、私は断固としてこの賞罰教育を否定します。

 

賞罰教育がなぜいけないか。その理由は単純で、生徒が「叱られないため」、もしくは「褒められるため」に努力をするようになってしまうからです。

「それの何がいけないんじゃい!?」という声もあると思いますが、

「叱られないため」「褒められるため」に努力をするようになることは、裏を返せば「叱られなければ努力しない」「褒められなければ努力しない」ことを意味します。

 

つまり、その生徒は自分のためではなく、教師のために努力をしているのです。

これが上の自立心を損なわせているという話に繋がります。

賞罰教育を受けた生徒は、大人になってからも「叱られない」「褒められる」ためにしか努力をしない人間になってしまうことでしょう。

 

 ➁社会を敵視するようになる

ほとんどの学校では、生徒一人一人に成績をつけ、順位づけします。

競争を促進し、全体のレベルアップを図っているのですね。

その計画はおおよそ思惑通りに進み、学校全体の成績はある程度向上しているでしょう。

 

しかし、「競争」にはそのメリットをはるかに超える大きなデメリットがあります。

「勝つこと」が何よりも重要だと教えられた生徒が、他者を敵だと感じてしまうようになることです。

これが成績、勉強だけの話ならまだ良いですが、影響は人間関係にも及びます。

まるで野生動物のように、同級生の中で立場を少しでも良くしようとやっきになります。

これは日本のほとんどの学級で見られていますよね。

「あいつよりはましだ」「あいつには負けている」などと同級生を格付けし、見下したり逆に持ち上げたりするようになります。

 

いじめは、その「相手を格付けする環境」の産物です。

他者を格付けし、自分の方が立場が上だと認めさせるために発生します。

「教育現場からいじめをなくそう!」なんてことをたまに聞きますが、そのためには成績や順位付けを無くすほかありません。

そんな環境にいる生徒がいじめを起こすことは当たり前であり、個人を責めるのは間違いです。

 

そして、この体質は社会に出てからも変わることはありません。

実際、日本人のほとんどがこの「相手を格付けする体質」だと言えるでしょう。

ギスギスし、他人に心を開くことができない社会、

サラリーマンが仏頂面で歩く社会は学校が作っているのです。

 

学校へ行かない代わりに何をするか

そもそも、子どもがすべきこととは何なのでしょうか?

私は「成長」だと考えます。

ですから、「学校へ行かない代わりに何をするべきか」は、「子どもが成長するためには何をすれば良いのか」という意味で書いていきます。

 

子どもが成長するためにすべきことを人に聞けば、まず勉強が挙がるでしょう。

私は学校制度を否定していますが、勉強を否定しているわけではありません。

毎日学校へ通わずとも本を読むだけで充分勉強はできますし、国の方針に合った勉強がしたいのであれば、通信制の学校に入学するという手もあります。

通信制の学校はテストこそありますが、生徒間の順位がつくようなことはなく、全日制の学校のように競争が誘発されることはないでしょう。

かくいう私も現在通信制の高校に通っています。

 

勉強することが成長につながる、その考えには私も概ね同意です。

日常に潜む「なぜ?」に敏感になって思考力が向上したり、論理的な思考が身についたり、問題解決能力が発達したりするなどの効果が見込めるでしょう。

ただし、その効果は「やらされる勉強」で得ることはできません。

方程式を解いたり公式を暗記したりすることはできるようになるかもしれませんが、上記のような能力向上は見込めません。

「自分から勉強をする」からこそ勉強が「成長」につながるのです。

 

そして、それは勉強に限った話ではありません。

 ゲームでもスポーツでもビジネスでもやらされれば意味がありませんし、自分からやれば様々な能力向上につながり、自分の成長を促進します。

つまり、「学校へ行かない代わりに何をすれば良いのか」の結論としては、「自分がやりたいことであれば何でも良い」です。

 「それをやると親が喜ぶから」ではなく、自分が夢中になり、楽しめることをすべきです。

 

そんなやりたいことだけをするという姿勢を「怠惰」だと考える人は少なくありません。

しかし、私から言わせれば、自分の欲求に従わないことの方がよっぽど「怠惰」です。

人が成長するのは「夢中になっているとき」です。

好きなゲームの腕前がどんどん上達したり、好きなスポーツの実力がぐんぐん伸びていったりした経験は誰にでもあるでしょう。

「やりたいことをやらない人」はそんな成長の機会をむざむざと放棄し、「やりたくないこと=成長が見込めないこと」に力を注いでいるのです。

自分のためにならないことはもちろんですし、その人が属する組織にとってもマイナスです。

周囲に合わせ、レールの上の人生を歩み、やりたいことをやらない人は、自分の価値の向上を目指さない怠惰な人だと言えます。

 

また、学歴が低いことから将来の不安を感じるという意見もあるでしょう。

しかし、その心配は不要です。

夢中になって磨いたスキル、才能は、必ず仕事に結びつきます。

むしろ、自分の才を磨くことなく、周囲にただ合わせて生きてきた人の将来の方が危ないと言えるでしょう。

 

 

当初は(江戸時代とかそういう話ですが)、学校という施設は子どもが自由に学び合うために存在していたのでしょう。

しかし現代、社会に出るための通過儀礼として存在するような施設に成り下がってしまっています。

「周囲に合わせることを学ぶ」ことを目的とした云わば強制施設であり、そこにはもう「子どもの成長を促す」という本来の目的は存在しません。

私もできるなら本来の姿を取り戻してほしいと思いますが、それはおおよそ無理な話です。

ですから、一度学校制度を崩壊させるしかありません。

「学校へ毎日通うことが当たり前じゃない社会」を作るしかないのです。